道重るみとはどんな人?
はじめまして。
道重るみ(みちしげ るみ)です。
私は元々、副業禁止の年金事務所で働いていました。
副業禁止ながらも、副業に関する情報収集を始め、無料情報をかき集めてビジネスを開始しました。
本格的に始めてから半年で月収1万円。
10ヶ月ほどで月収10万円、
12ヶ月で月収70万円を達成。
そこから仕事を辞めてお家でビジネスをする、心と体の自由なストレスフリーな生活をしてます。
今はやりたい時にゆるゆる作業をし、息子と思いきり遊び、一緒にお昼寝しちゃったり。
そんな風に全然仕事してないな~って時も、スマホやパソコンから確認すると「知らぬ間に収益が入ってる」という状態。
その理由は、私が「仕組み」を作り、それが「自動」で働き、お客様へ「コンテンツ」なる商品をお届けしてくれているからです。
何か特別な才能があったわけでもなく、変わった実績を持っていたとか、コネがあるとかもありませんでした。
本当にただの素人で実績0の状態から始めて月70万円をたたき出しました。
その経験を元に、今では「実績0でも始められる仕組み化自動ビジネス」をテーマに
●技術や趣味の実績を収入に変えたい
●実績は無いけど収入を増やしたい
●今の実績を更に大きくしたい
という人向けのサポートを仕事にしています。
生徒さん達には、5~30万円程度を実際に稼いでもらったりしています。
ここでは私の自己紹介をさせていただきますので、
「私がどのようにしてビジネスで稼げるようになっていったのか」そして「なぜこのサイトを作り始めたのか」といったことを色々とお伝えしていきますね。
「いや、そんなこと聞いてないけど」という、私の人生の奥深いところまでお話していっちゃいます〜!
最後にプレゼントってほどではないですが、読んでくれた方にちょっとしたお知らせがあります。
ぜひご覧下さいね!
1.幼少期の話
9人家族の1番年下
この頃は「曾祖父、曾祖母、祖母、祖父、母、父、大兄6個上、小兄4個上、私」という家族構成でした。
おじいちゃんとおばあちゃんが2人ずついる家族って、今ではなかなか無いことですよね。
人見知りしない子供
家族が多いこともあってこの頃は人見知りも少なく、初めて会った同い年ぐらいの子達とすぐに打ち解けていましたね。
年上の兄が2人いると色々な遊び方を教えてもらえるので、それが自然に出せていたのだと思います。
この頃は兄弟みんなで楽しく遊んだりしていたんですよ。
救世主は2人のおばあちゃん
食事を残すと母に怒られるので、嫌いな物でも食べなければいけなかったのです。
だから私はナスやピーマンといった苦手なものを、みんなが見ていない隙に2人のおばあちゃんの皿へとポイポイ移動させていたのでした。
ちょくちょく母に見つかって怒られていましたけどね。
私が父に怒られて夜に家から締め出された時も助けてくれたのはおばあちゃん達でした。
年長さんの頃に曾祖父が亡くなる
私が幼稚園の年長になった頃、曾祖父が亡くなってしまいました。
私にとって「家族の死」を初めて体験したので、とても悲しかったのを覚えていますね。
2.小学生時代の話
性格の変化
キッカケは覚えていないのですが、3年生に上がった頃から「恥ずかしがり屋」になってしまったのです。
家ではちびまる子の主人公みたいによく喋るのに学校ではほとんど喋らないので、新しいクラスになっても自分から話し掛けることができなくて、ただただ静かに過ごす日々を送っていました。
全然頭は良くなかったのですが、あまりにも静かにしていたので周りから「優等生疑惑」が浮上したのには参ってしまいましたよ。
コミュ障すぎた過去
近所に年下の友達がいたのですが、コミュ障すぎる私は「一緒に遊ぼう」という声掛けができなかったのです。
なので私は家の塀にサッカーボールを蹴り当てて、その音で気付かせるという「おびき寄せ作戦」を取っていたのでした。
この作戦はその友達が家に帰って来たのを確認してから実行していたため、成功率は100%だったんです。
必ず「るみちゃん遊ぼう〜!」と言って家から出て来るので、「あっ、いたんだ!良いよぉ〜」と言って一緒に遊んでいましたね 笑
父の厳しさ
父はしつけに関してかなり厳しい方でした。
ある時、気分の良かった父が珍しく私の勉強を見てくれたのですが、その時にちょうど兄がテレビを見ていたんですね。
テレビの音が気になってチラチラ見ながら勉強していた姿を見た父がキレて、私の首根っこを掴んでそのまま片手でふすまにぶん投げたんです。
ふすまはドリフみたいに外れてしまい、それ以降は父が私に勉強を教えてくれることは一度もありませんでした。
兄の変化
私には兄が2人いるのですが、上の兄は中学に上がった頃に反抗期を迎えて無口になっていきました。
今まで下の兄や私と楽しく遊んでくれていたのに、一切遊んでくれなくなったのです。
当時の私と下の兄はその理由が全然わからなかったので「嫌われちゃったんだ」と勝手に思っていましたね。
ゲームにハマる
兄たちの影響でスーパーファミコンをやり始めた私はドラクエにハマってしまい、5年生になった頃には「友達と遊ぶよりもゲームを優先する」という生活を送っていました。
あまりにもずっとゲームをしていたため、父にゲーム機を破壊されてしまいました。
思いっきり投げ飛ばされて散り散りになった部品を拾い集めましたが、私はそこまで悲しくありませんでした。
何故なら家にはもう1台同じゲーム機があったからです。なぜ同じものがもうひとつあったのかはわかりませんが。
その後は父の居ない日を狙ってゲームをやるようにしました。
漫画にもハマる
小学生時代にハマったものはゲームだけではありません。漫画にもめちゃくちゃハマってしまいました。
兄や近所のお姉さんの影響で少年漫画や少女漫画を読み漁るようになったのです。
読む漫画は色々で、幽遊白書・るろうに剣心、ハーメルンのバイオリン弾き、ミラクルガールズやセーラームーンなどなど「怖い系」や「ホラー系」以外はなんでもアリでしたね。
家族が多いから自分の部屋は無い
この時は8人家族だったので、当然自分の部屋なんてありません。なので小学3〜5年生までは祖父母の部屋で寝ていたのです。
そのためかなりの「ジジババっ子」でしたね。
ジジババっ子の影響は凄まじく、演歌や時代劇ばかりを一緒に見ていたので、口ずさむ曲は「津軽海峡冬景色」「夜桜お七」といったものばかり。
好きな番組は「お江戸でござる」というなんとも子供らしからぬ状態になっていたのでした。
3.中学生時代の話
性格は相変わらず
中学に上がっても性格は変わらずのコミュ障っぷりでした。
自分から友人に「遊ぼう」とか「一緒に帰ろう」と言えないため、誘われたら遊ぶけど誘われなければひとりで遊ぶという感じでしたね。
家族関係の変化
ちょうどその頃、兄二人の仲が最悪になっていました。
お互いに一切話し掛けないし、殴り合いのケンカもしていて怖かったですよ。
でも、更に怖かったのは父でした。兄達も父には一切逆らわなかったですからね。
そんなこんなで喋る機会がドンドン減ったので、私のコミュ障に拍車がかかっていったのでした。
部活はテニス部だったけど、、、
どうしてもテニスをやってみたくて「硬式テニス部」に入部したのですが、もうすでにテニス部の廃部が決まっていたため、入部はできたものの部活動で後輩ができることはありませんでした。
コミュ障の私にはちょうど良かったのかもしれませんが、ちょこっと寂しさもありましたね。
今思えばイジメ
自分の思っていることをズバッと口に出せるタイプではなかったため、気弱な私は同級生の女の子に目をつけられました。
「いじられキャラ」みたいな扱いになり、みんなの前で嫌なことを言われたり、ノートや教科書に落書きをされたりというのが一定期間続いたのです。
これをやってきたのはひとりの女の子だけでしたが、周りの人が同調しなくて本当に助かりました。
クラス替えを機にこういうことは無くなりましたけど、今思うとイジメになるでしょうね。
近所の本屋
中学2年になると、家から徒歩10秒のところに本屋ができたんですよ。漫画好きの私にはとても有難いことでした。
当時は立ち読みしていても注意されることがありませんでしたから、まずは手当たり次第色々な漫画を読んで、面白いものだけ購入していましたね。
当時は「漫画を買うなら絶対に新品」という謎のこだわりがあったので、本当に面白いものだけを吟味していたのです。
数ある本の中でも「花とゆめ」という雑誌にどっぷりハマり、そこで掲載されてる漫画家さんの漫画を集めるようになっていました。
この頃はお小遣いの大半が本に消えていましたね。
ついに自分の部屋ができる
中3でついに自分の部屋ができたのです。
自分の部屋といっても兄達が一人暮らしを始めたので、空いた部屋を自分の部屋にしただけですけどね。
クリスマスプレゼントにテレビとビデオが一体化している「テレビデオ」を買ってもらい、その他の小物も徐々に揃えて自分の城を作っていったのでした。
それまで自分の部屋が無かった私は、好きなアニメを録画して自由な時間に見たり、休みの日はこっそり朝までゲームをしたりしてひとりの時間を満喫していました。
今までは祖父がテレビの主導権を握っていたため、アニメはもちろん流行りのドラマや音楽番組も見れませんでしたからね。
電気を付けたまま寝落ちしてしまい、それが親にバレて怒られたこともありましたよ。
でも、それほどまでに自分の部屋を持てたことが嬉しかったのです。
ゲームは相変わらず大好き
兄のプレイステーションが家にあったので、それを勝手に使っていた私はゲーム三昧の日々を送っていました。
スーパーファミコン時代のドラクエの影響でRPG系が好きになっていたので「テイルズシリーズ」にどっぷりハマってしまったのです。
時間があればずっとレベル上げをしているという地味な楽しみ方ですが、当時の私にとっては至福の時間でしたね。
志望校の基準
私は勉強ができる方ではなかったので、学年で見たら成績は「中の下」ぐらいだったのです。
でも、自分が行こうとしていた高校なら現状維持でも合格しそうだったので、特に勉強はしていなかったんですよ。
その高校に行きたい理由は「家から近くて硬式テニス部があったから」ただそれだけでした。
家の近くにはもうひとつ硬式テニス部がある高校があったのですが、そこは現状の学力だと足りなかったので候補に入れていなかったんですよ。
勉強するよりゲームや漫画を楽しみたいですからね。
高校見学
今もそうだと思いますが、志望校をいくつか見学することができるんですよね。
とりあえず私は家から近い「硬式テニス部がある高校二カ所」を見学することにしました。
ひとつは第一希望の高校で、もうひとつは「行くつもりは無いけど硬式テニス部がある高校」です。
先程お伝えした「現状の学力では行けない高校」のことですね。
やっぱりライバル校になるであろうテニス部がどんな感じか見ておきたい気持ちがありましたから。
そして見学当日「どんな感じのところなのかなぁ」とワクワクしながら第一志望の高校へと向かい、学校見学が始まりました。
校舎は少し古かったですが、私にとって重要なのは「テニス」ですから、そこさえしっかりしていれば問題はありません。
部活をやっている時間ではなかったため、部活風景を見ることはできませんでしたが、そこそこの設備があることは確認できました。
ちょっと気がかりなのはコートが「土」だと言うことですね。
オムニコートといって「芝」のコートがあるんですけど、芝の方が土よりもやりやすいんですよ。
しかも3年間もやり続けるわけですから、それが芝か土かでは大きく差が出てきます。
ただ、そこまで環境を整えている高校なんて限られているでしょうから、そこにこだわっても仕方ないと思ってその日の見学を終えたのでした。
衝撃と決意
もうひとつの高校の学校見学当日。私はあまり乗り気ではありませんでした。
「ただ見てみたい」という考えで予定を入れただけなので、ちょっと面倒になっていたんですよね。
でも行かないというわけにもいかないため、渋々高校へと向かうのでした。
校舎に入ると生徒の姿が見えました。
そこまで学力の高い学校ではないのですが、自分より頭の良い人達だということに違いはありません。
「みんな賢そうだなぁー」と思いながら色々な見学を済ませ、お目当てのテニスコートを見に行ったのです。
そこで衝撃を受けました。
オムニコート(芝のコート)だったのです。
「オムニコート!?」と思わず口に出してしまった私の心は大きく揺れ動きました。
そして「…やるしかないッ!」と決意したのです。
「やる」というのはもちろん、この高校に入るための猛勉強ですよ。
全てを捨てて挑む
家に帰って高校受験の進路を変更する旨を両親に伝えた私は、まずゲームと漫画を押し入れにしまったのです。
ゲームと漫画を封印しなくては、とても勉強なんてできる環境ではありませんからね。
そこからは一心不乱に猛勉強です。(あくまでも私なりにですからね)
塾にも通わせてもらい、22:00ぐらいまで先生に教えてもらったりもしていましたし、頭の良い友達を家に呼んで勉強を見てもらったりもしました。
コミュ障の私がそこまでやったんですから、その熱意が伝わると思います。
そんな生活を数ヶ月間耐え抜いた私は、ギリギリでなんとかオムニコートの高校に合格することができたのでした。
4.高校生時代
当然部活は硬式テニス部
中学から引き続き硬式テニス部へ入部。オムニコートでの練習はやはり得られるものが多かったですね。
私はテニス経験者だったため早い段階から先輩達の練習に参加していたものの、入部から2ヶ月が経過したところで足首の靭帯を損傷して1ヵ月半部活を休むことになってしまいました。
その間に他の部員達が急成長し、経験者の私をあっさりと追い越してしまったのです。
それもそのはず。このテニス部はテスト週間と元旦お盆以外は休みが無く、夜9時以降でも帰れないことが度々あるという部活でしたからね。
しかもその原因は先輩達の「しごき」でした。
そんな厳しい先輩達の中で毎日練習していれば、2ヶ月で急成長するのも当たり前です。
まぁ私自身めちゃくちゃ上手かったというわけでもなかったので、追い越されてしまったのはただの実力不足ですけどね。
怪我が治ってからは練習に参加して、休んだ期間を取り戻すため練習に没頭しました。
部活は基本的に屋外だったため、毎日外で練習している私達は年中日に焼けていました。
特に夏は「夜になると闇に紛れて姿が見えない」「まるでゴキブリ」と言われるほどでしたね 笑
毎日のハードな部活を終え、家に帰ってお風呂と夕飯を済ませたら自分の時間なんて少ししかありません。
私はその貴重な時間を勉強ではなく漫画やゲームに充てていたのです。これがかなり効果のあるリフレッシュタイムだったんですよね。
ただ、当然のことながら成績はガタ落ちして、テストの度に親から叱られていましたよ。
本物のコミュ障
受験勉強の時に人と接する時間を増やしたことでコミュ障を克服したかに思えたのですが、高校生活でコミュ障っぷりが発揮されてしまったのです。
部活で毎日コミュニケーションを取る人達とは明るく話せるのですが、クラスメイトとは必要最低限の会話しかしませんし、自分から話し掛けることは一切ありませんでした。
しかし、慣れてくるとうるさいくらいに明るくなるため、仲良くなれた友達からは「コミュ障じゃないと思うよ」と言われていましたね。
過去の記憶がよみがえる
ちょくちょく話し掛けてくれる3人のクラスメイトがいて、その子達とお昼ご飯を食べるようになったのですが、少しずつその子達の力関係が露わになってきました。
1人の子を標的にして、あとの2人が嫌がらせみたいなことをやりはじめたのです。まるで中学時代の私がされていたように。
私もやるように強要されたのですが、私には「やられた側の経験」があったので、それに参加しようとは思えませんでした。
人間関係の構築が下手なのに加え、そんな事実を知ってしまったことで、4人で集まった時にも上手く会話に参加することができなくなってしまったのです。
そのことで標的が私に向くということはありませんでしたが、助けてあげたくても助ける方法がわかりません。
そういった人間関係にはもうこりていたので私から徐々に距離を置き、高1の途中からは一人でお昼ご飯を食べるようになったのでした。
テニス部で仲の良い友達はいましたけどみんなクラスが違いましたし、知らない人だらけの所に入って行く勇気なんてありませんからね。
この時にひとりの気楽さというのを実感しましたよ。
叶わぬ恋
好きな人はいましたけど、片思いのまま終わってしまいましたね。
当時は本当に人と話すのが苦手だったので、そんな私が自分の想いを打ち明けるなんてできるはずがありません。
彼女がいないという噂を耳にしたので「ちょっと頑張ってみようかなぁ」と思い、どうすれば良いのわからず迷っているうちに彼女ができてしまいました。
当時の私では、たとえ想いを伝えたとしても付き合えなかったとは思いますが、行動を起こせなかった自分に対して本当にガッカリしましたよ。
そしてその後、好きだった人が「俺浮気してるんだよねー」と笑いながら話しているのを目撃してしまい、一気に人間不信に拍車がかかっていくのでした。
高校時代に力を入れたもの
これは「漫画収集」ですね。
これまでも漫画には力を入れていましたが、高校生になりお小遣いの金額がアップしたため、軍資金を手に入れたことが起爆剤となりました。
かつては新品主義だったので古本屋には見向きもしなかったのですが、この頃は「とにかく多くの本を手に入れたい」という欲にまみれていたため、やむなく古本に手を出したのです。
結論から言うと「中古最高ッ!」って感じでした 笑
まとめ買い&一気読みするためにはやはり古本しかありませんし、本の状態も思っていた以上に綺麗だったんですよね。
こうしてどんどん本を手に入れた私の部屋には、三千冊以上もの漫画が収納されていったのでした。
進路はしっかり考えるべき
進路のことを深く考えていなかったため、授業を選択する際に「面白そう」という理由から「化学Ⅱ」と「数学Ⅲ」というゴリゴリ理系科目を選んでしまったのです。
その結果、全くついて行くことができずテストではついに4点(50点満点中…)をたたき出してしまいました。
さすがに先生から心配されましたね。
その後個別相談をしてもらい進路を変更することになったのですが、選択肢が少ない私には「これだ!」という目標が立てられなかったのです。
そうやって色々と模索しているうちに「柔道整復師」「スポーツトレーナー」という仕事を知ったのです。
専門学校で資格を取れば就職できるという感じだったので、先生に相談したところ「推薦入試なら入りやすいだろう」と教えてもらい、私はその道でやっていくことを決意したのでした。
合格したものの、、、
進路に関しては色々とありましたが、専門学校に入れることが決まったのです。でも、合格通知をもらった時は複雑な心境でした。
その原因は「父」です。
数学で4点を取っている私としては、合格するかどうか微妙だと思っていたので、合格通知が届いた時には結構喜んでいたんですね。
そうやって喜んでいる私の姿を見た父は「専門なんだから受かって当たり前だろ。何を喜んでいるんだ」と呆れ顔で冷たい言葉を放ったのです。
喜びから一転、一気に心を痛めつけられたのでした。まぁ今となっては父の言ったことはわかりますけど、当時の私はショックを受けてしまいましたね。
この時の父は自分の趣味に没頭していたため、私への関心がかなり薄れていたのも理由のひとつでしょう。
高校生活を通して
高校生活の中で私なりに頑張ってきたことはありましたけど、結局のところ部活や学業で大きな成果は出せませんでした。
まぁ学業に関しては頑張っていませんでしたけどね 笑
当時は1日1日が長いと感じていましたが、気付けばあっという間に卒業を迎えてしまったので、なんだかんだ充実していた3年間でしたよ。
5.専門学校時代
専門学校での生活
専門学校に入った私は、高校生活とのあまりの違いに衝撃を受けました。
特に男女比。
私の通っていた専門学校は1クラスにつき20人の生徒がいて、そのうちの17人は男性だったのです。
私以外の数少ない女性は社会人出身のため年齢が5~10歳違っていたので、ほとんど会話をすることはありませんでしたね。
ひとりでも知り合いがいれば少しは違ったでしょうけど、誰一人として知り合いがいなかったので楽しみは全然なかったです。
更に私はファッションに興味が無かったため服のセンスも良くなかったんですよ。なので慣れない私服登校が本当に憂鬱でした。
初めてのバイト
専門学校での生活があまりにもつまらなかった私は、実家の近くにあるスーパーマーケットでレジのアルバイトを始めました。
専門学校には実家から通っていたので、近い方が楽だと思ってそこに決めたのです。
バイトをしたことが無かった私はドキドキしながらレジ打ちをやったのですが、やり始めて1週間もすると慣れてしまいましたね。
接客業ではあったんですけど基本的には業務をこなすだけだったので問題は無く、学校に行くよりはよっぽど楽しかったです。
働く楽しさや厳しさ、お金を貯める喜びなどを知ることができたのは大きな収穫でしたね。
先生の厳しい意見
2年生に上がる際に先生と面談するのですが、先生の口からは予想外の言葉が出たのでした。
「この成績では絶対に続けられない。お前なんかは学校を辞めろ」
そう言われたのです。
鬼のような形相で何度も何度も言われ続けた私は、耐えきれずに号泣してしまいました。
確かに成績優秀というわけではなかったのでもっと努力した方が良いとは思いましたが、そこまで言わなくてもいいじゃないかというのが本音でした。
先生の言葉はかなりショックでしたが、それはひとつの意見として心にしまっておき、2年生へと進級したのでした。
真似してはいけないモデル
進級したのは良いのですが、どうしても先生の言葉が気になってしまうんですよね。
そしてこの頃に「授業の必要出席日数を満たせばある程度休める」ということを知り、モヤモヤした気持ちを払拭しきれない私は欠席が増えていったのでした。
休んでそのまま映画や買い物に出掛けたり、ただただ駅のホーム内のベンチに座っているだけの日もありましたね。
進学の関係で地元に友達がいなくなっていたので、遊ぶ相手がいなかったんですよ。
私は休める日数を計算して、3年生への進級に影響の無いように休みを取っていったのでした。
しかしこの数か月後、例の先生はうつ病を理由に辞職することになったのです。
これは後になってわかった話ですが、あの時の面談であそこまでキツく罵倒されたのは私だけではなく、先生が「優秀ではない」と判断した生徒全員に対してだったようで、私以上にヒドイ暴言を吐かれた生徒もいたのです。
あの面談以降すぐに学校を辞めてしまった生徒もいたので、いくら理由があるとはいえ「それじゃしょうがないね」と素直に納得はできませんでした。
教師も人間だというのはわかりますが、先生は生徒にとって大きな存在です。それをもっと意識してほしかったですね。
このことは「絶対に真似してはいけないモデル」として、私の今の仕事に活かすことができているので、とても良い経験をしたと思っていますよ。
曾祖母が亡くなる
私が3年生になる前に、曾祖母は病気で亡くなってしまいました。90歳を超えていたので仕方ないのですが、私のことをとても可愛がってくれたので寂しかったです。
そして珍しく兄弟3人が家に揃ったのですが、この頃の兄弟仲は最悪だったので会話なんて一切ありませんでした。
本来こういう時には「こんなことがあったよね」といった感じで、かつてのことを話すのが普通だと思いますが、当時はそれすらできないぐらいに仲が悪かったんですよ。
ただ、みんな曾祖母が亡くって悲しんでいるというのは共通しているようでした。
柔道整復師という資格
「柔道整復師」という資格があり、これは国家資格になるんですよ。私は国家資格というものは車の免許ぐらいしかありませんでした。
最初は「簡単に取れるだろう」と思っていたのですが、結構しっかり勉強しておかないと難しいということを知り、3年の夏からバイトを辞めて受験に集中することにしました。
「猛勉強」というほど一生懸命やったわけではありませんでしたが、試験に受かるための対策はしっかりやっていたため、無事に合格することができたのでした。
就職活動はコミュ障の敵
晴れて柔道整復師の資格所有者となった私でしたが、コミュ障のため就活になかなか一歩踏み出せずにいたのです。
だって、面接って緊張するじゃないですか。絶対うまく話せなくてオドオドして終わりですよ。
そんなウジウジしている私を見かねて、同じクラスの人が声を掛けてくれたのです。
「俺の父親が接骨院をやってて求人出してるから、一度行ってみたら?」
と言ってくれたその人とは一度も会話をしたことが無かったのですが「ここしかない!」と思った私はすぐに話を聞きに行ったのでした。
息子の紹介というのもあり、院長先生はとても丁寧に優しく色々なことを教えてくれたのです。
しかも私にとってはかなりの好条件だったので「是非お願いします!」と即決するとその場で合格をもらえたので、無事就職先を決めることができたのでした。
紹介してくれたクラスメイトに感謝ですよ。
6.社会人編「接骨院で様々な出来事」
初めてのひとり暮らし
職場が実家から離れていたため、ここでようやく初めてのひとり暮らしをすることになったのです。
「ひとり暮らしといえば自炊でしょ!」と思っていた私はいくつかの料理にチャレンジしたのですが、もともと料理ができなかったのであまり上手く作ることもできず、片付けの面倒くささから自炊はすぐに諦めたのでした。
片付けも必要最低限しかできなかったですね。
しかも私はペットボトルの飲み物を「少しだけ残す」というクセがあるので、少しだけ液体の入ったペットボトルが常に部屋のどこかにあったのです。
ゴミ屋敷とまではいきませんが、とてもじゃないけど「キレイな部屋」と言える状態ではありませんでしたね。
仕事は私にとって最高だった
私が勤めていた接骨院は、接骨院といっても主な業務が「マッサージ」だったので、お客さんの大半は整体に行くような感覚で来ている方ばかりでした。
でも体を動かすのが好きだった私は、この仕事がとても楽しかったのです。
スーパーのレジで接客業をしていたため、お客さんと接することにはだいぶ慣れていましたし「業務」だと思えば自分から話し掛けられるようにもなっていたのです。
色々な雑務もありましたがそちらも問題なくこなすことかでき、とても順調でしたね。
健康保険を扱うため、保険についてもだいぶ詳しくなったりと、自分自身の成長も感じられて凄く良い職場でした。
そして月に1度、院長先生主催の食事会があり、社員は6人ほどいたのですが全員無料で招待してくれたんですよ。
自分では絶対に行くことが無いであろう高級レストランや料亭ばかりでしたから、だいぶ太っ腹ですよね。
社員旅行はディズニーランド&シーに一泊二日や京都に行くなど、社員にとって本当に良い環境だったのです。
仲良くなれた先輩
1年が経とうとした頃「今夜ご飯でも行かない?」と女性の先輩が声を掛けてくれました。
この先輩は4つ年上で、仕事をやっている時にはちょくちょく話をしていましたけど、二人きりで遊びに行くような仲ではなかったので凄く驚きましたが、優しい人だったので私は「はい」と返事をしたのです。
ちょっとお洒落な居酒屋で待ち合わせだったので、少し早めにお店に向かうと先輩はすでに待っていました。
乾杯してひと口飲み終わると先輩が「仕事は楽しい?」と話を振ってくれて、そこからお互いの共通点などがわかっていき、どんどん話が弾んでいったのです。
そして中盤に差し掛かったところで「るみちゃんって初対面の人と話すの苦手でしょ?私もそうだからよくわかるんだよね」と言われました。
完全に気付かれていたんです。私は「はい。よくわかりましたね」としか答えられませんでした。
よくよく話を聞いていくと「自分(先輩)と凄く似ているから話してみたい」というのが食事に誘ってくれた理由だったようです。
共通点が更に増えた私達は、今まで会話しなかった時間を取り戻すかのように喋り、楽しい時間を過ごしました。
お互いコミュ障だったので仲良くなるのに時間は掛かりましたけど、仲良くなってからは泊りで遊びに行ったり昼休みに一緒に買い物へ出掛けたりと、今までで一番と言ってもいいくらい馬が合う関係となれたのでした。
2年目のひとり暮らし
1年目の早い段階で自炊を諦めていた私は、基本的にコンビニなどで好きなものを食べるという健康的ではない生活をしていました。
スマホゲームに課金したり、漫画も買いたい放題買っていたため全くお金は貯まりませんでしたね。
漫画は実家に置いてきた分と合わせると五千冊を超えていたので、今考えるととんでもない数ですよね。
ちなみに「BL」の禁断感にハマっていました 笑
保険診療の変化
ちょうどこの頃から保険診療に対して厳しい目が向けられるようになったこともあり、院長先生の息子が「接骨院のあるべき姿に戻す!」と言い出してマッサージの時間短縮や価格改革が始まったのです。
簡単に言うと「今までより稼げないようになる」ということでもありますから、院長先生は猛反対ですよ。
その影響から院長先生と息子が対立しだし、仕事中にもかかわらず大声でケンカをするほどになってしまいました。
休憩時間を割いて業務改善の話し合いが行われることもしばしばあり、平穏は徐々に壊れていったのでした。
仲良く慣れた先輩と2人で飲みに行き「このままではついていけない」と今後について真面目に語り合っていましたよ。
7.社会人編「飲食店掛け持ち」
副業開始
接骨院に勤めて3年が過ぎた頃、地元に帰ってきていた友人に「バイト先の人数が足りないから助けて〜」と頼まれたのです。
職場は副業OKだったため「休みの日だってどうせ暇してるんだから別に良いか」と思い、地元の飲食店でアルバイトを始めることになったのです。
ひとり暮らししているところから実家までは少し距離がありましたけど、私にとってはその移動もリフレッシュになったので良かったんですよね。
接骨院でお客さんと会話することにはだいぶ慣れていたので、飲食店での仕事は全く問題ありませんでした。
接骨院とは違った刺激があったので結構楽しんでやれていたのですが、本業が休みの日にアルバイトをしていたため、気付いたら40連勤していたんですよ。
最初の数ヶ月はお金が増えることの喜びが大きかったのですが、プライベートな時間が無くなっていく状況が続いたことで「私は一体何のために働いているんだろう?」と考え始め、次第に心を病んでいくのでした。
舞台の素晴らしさを知る
そんな時、バイト先にたまたま中学時代の同級生であるAちゃんが来たので少し話をすると「私、今は趣味でお芝居をやっているの」と教えてくれたのです。
そして「今度一緒に小さな劇団の舞台を観に行かない?」と誘われ「お芝居」というものに全く興味はありませんでしたが、特に断る理由も無かったので一緒に行くことにしたのです。
舞台を観に行く約束の日。
小さな会場(会場というより部屋)に手作りのセットが置いてあり「なんか安っぽいなぁ」というのが正直な感想でした。
しかし、開演した直後にその考えは変わりました。
同年代の人達が楽しそうにキラキラ輝いているのです。上手いかどうかはわかりませんが、とにかく「楽しんでいる」というのは良く伝わってきます。
その姿を見て羨ましくなった私は、舞台が終わる頃には「自分もやってみたい」と思うようになっていたのでした。
親子喧嘩の末に、、、
舞台の素晴らしさを知った数ヶ月後、接骨院では事態が悪化していました。
院長先生と息子の大喧嘩の末「接骨院を閉める」という方針で決定してしまったのです。
私達社員からしてみれば「もっと良い方法はあるはず」というのが正直な意見でしたが、ヒートアップしてしまった2人を止められる人間はいません。
そして接骨院を閉めるのを機に、私はアルバイト一本のフリーターとなってお芝居を始めるのでした。
8.社会人編「お芝居」
入団の経緯
地元でアルバイト一本のフリーターとなった私は、ひとり暮らしを辞めて実家へと戻ったのです。
そして舞台の素晴らしさに気付かせてくれたAちゃんと会う機会も増えたのでした。
Aちゃんもお芝居をやっているため色々な話を聞かせてもらうことができ、その度に「いいなぁ。私もお芝居やってみたいなぁ」という気持ちが強くなっていきました。
そしてある時Aちゃんから「今やっている劇団なんだけど、1人だけどうしても足りないみたいだから、もし良ければやってみない?」という誘いがあり、私は即座に「うん!やってみる!」と言って入団することが決まったのでした。
初顔合わせ
劇団のみなさんと初めての顔合わせは会議でした。とても優しそうな人達ばかりで、私のやる気は更に増していきました。
その会議で私が初参加する舞台というのは、東京の劇団さんが主宰するイベントだということを知ったのです。
「初舞台なのに東京!?」と驚きましたが、東京といっても50人ほどしか入らない小さな劇場ということなので少し安心しました。
しかしその舞台に向けて計画を立てていく中で、私が演じる役が思っていた以上に重要なことを知り、期待と不安で胸がいっぱいになったのでした。
楽しさと厳しさ
初めて台本というものを渡された私は「これ、全部覚えるの?」という不安しかありませんでした。
でもやるしかありません。私は台本を覚えるために空いている時間全てを注いだのです。
そして初めての稽古。一生懸命覚えたこともあり、セリフはつっかえること無くスラスラと出てきたのです。
その姿を見て劇団のみなさんも褒めてくれたので、私は「おぉーっ!これは楽しい!」と思い始めました。
しかし、ずっとスムーズにいくはずがありません。段々と要求される内容が難しいものになっていったのです。
その要求はかなり細かく、素人がいきなりできるようなものではありません。ここでようやく本当の厳しさというものを知るのでした。
舞台本番
楽しさ、辛さ、厳しさを兼ねそろえた稽古を乗り越えた私は本番を迎えました。
結果から言うと「私なりには成功した」という感じでしたね。
素人の私が短期間であそこまでできるようになったことを考えれば成功ですが、長年お芝居をしている人が見ればまだまだ未熟だったと思います。
でも重要なのは達成感でした。私はなんとも言えぬ達成感を味わうことができたのです。
社会人になるとこんな達成感を得ることはまず無いので、私はお芝居の中毒性にハマっていったのでした。
ちなみに母は東京まで一人で見に来てくれたのですが「大根役者」と言われてしまいましたね 笑
新たな劇団
東京公演を終えてから少し経ってAちゃんから「劇団ではなく少人数でユニットでお芝居をやろうと思っているから、一緒にやらない?」というお誘いがあったのです。
お芝居の魅力に取り憑かれている私は即座にオッケーしたのでした。
理想と現実
ユニットでの活動はとても楽しかったです。新しいことを学び、知らない世界を知れることが楽しくて仕方ありませんでした。
しかし次第に状況は変わっていきます。
まだまだ学ぶことばかりなのに稽古時に私が仕切りを任されたり、練習方法・脚本・舞台プラン・イベントの概要など、様々な仕事が回されるようになっていったのです。
段々お芝居の練習よりも裏方作業が増えていくことに、私の中で不満が生まれ始めたのでした。
そしてこの原因を作っている人こそ、ユニット創設者であり私をお芝居に誘ってくれたAちゃんだったのです。
Aちゃんは私にお芝居の素晴らしさを教えてくれた人なので悪く言いたくはないのですが、それが真実なのです。
Aちゃんは恋愛や仕事の悩みを稽古中や会議中に長時間話し始めてしまい、悩み相談だけで終わってしまうということが度々起きていました。
深夜まで行われる会議と称した集まりは半強制参加だったため、自分の仕事を入れたくても入れられず収入はガクッと落ちていったのです。
これは私に限ったことではなく、ユニットを組んでいる他のメンバーも同じ状況でした。
稽古も十分にできない私達は限られた時間の中で一生懸命努力するのですが当然ミスは起こります。そのミスに対してAちゃんは厳しく注意するのでした。
ある日の稽古で、耐えきれなくなったメンバーのひとりがAちゃんに意見したところ「あなたが好きで始めたことでしょ?」という言葉がAちゃんの口から出たのです。
その言葉を聞いた瞬間、私の中でお芝居への熱がスッと引いたのを感じました。
一気に冷めてしまったことで心が芝居に向かなくなり、私はお芝居の世界から身を引いたのでした。
9.社会人編「役所関係の事務仕事」
転職
お芝居をやっていた時は不規則な生活のためフリーターとしてしか働けませんでした。そのことについて両親から心配され、正社員で働くよう強く勧められていたのです。
お芝居を辞めたことで時間の制限などが無くなったため、私は正社員を目指すためにハローワークへ通ったのでした。
最初は接骨院で勤めていたことを活かして病院の受付けをやってみようと考えたのですが、医療事務の資格が無いことや勤務経験が無いことから書類審査で落ちてしまうことがほとんどで、たとえ面接までいっても合格させてはもらえなかったのです。
あまりにも就活が上手くいかないので、手当たり次第に応募していた私は、事務経験なんて無いのに「年金事務所」へ応募してみました。
すると「すぐに面接に来てください」という連絡を受けて面接へ向かうと、思いのほか好印象で面接を終えて、後日合格通知を受けることができたのでした。
正社員ではなく契約社員だったので、給料は出勤した分しかもらえないし、その他の待遇も良いとは言えませんでしたが「とにかく働かないといけない!」と焦っていた私は、他に応募していたところを辞退して「年金事務所」へ勤めることにしたのです。
両親は「年金事務所に勤めている」というのが凄く誇らしいようでとても喜んでいましたが、実際は募集に書いてあった内容とは全く違う仕事内容でした。
知識がかなり必要になるのですが教えてもらえる時間も無いため、家に帰ってからもひたすら勉強をする日々。新しいことを学ぶのは楽しいので最初はその生活にやり甲斐を感じていたのです。
しかし、あまりにも給料が少な過ぎました。
時給850円は安過ぎます。しかも副業禁止。
1ヶ月丸々働いても手取りは13万円程度で、出勤日数が制限される月に関しては手取りが10万円を切ってしまいましたからね。
経験を積めば積むほど任される仕事のレベルが上がり、ひとつのミスが大きな問題に発展してしまうようなポジションにつかされても給料は一切変わりません。
でも上司からの圧力がかかり、私達はそういった仕事をやらざるを得ない状況になっていくのでした。
責任転嫁
そんな状態で半年が過ぎた頃、私が関わった仕事でひとつのミスが発覚したのです。内容としては「書類作成時の手順の間違い」でした。
その仕事を任されていたのが私だったので「私のミス」ということで話が進んでいったのですが、実際のところ手順は社員さんにしっかりと確認していたのです。
しかしその社員さんは出張でその場におらず、
私はその証明をすることができませんでした。
その際、主任は私に「自分の責任だから自分で謝りに行け」と高圧的な態度で言ってきたのです。
ただ、この一部始終を見ていた周りの人達は責任が誰にあるのかを理解していました。
そもそも仕事の流れとして
1.私が書類作成する
2.主任が確認する
3.課長が確認する
という「三重のチェック」が義務付けられています。
つまり、その発言をした主任にも責任はあるし、最終チェックをした課長にも責任はあるということです。
もちろん書類作成をした私にも責任があるのは重々承知しています。ただ、その事実を知っている側からしたら、主任の言葉は責任転嫁にしか取れなかったのです。
こういう時は誰も助けてくれません。というか助けられないのが普通です。自分の立場がありますからね。
あとから他の社員さんが私にフォローの言葉を掛けてくれましたが、この事件をきっかけに上司への不信感が強まっていったのです。
そして「自分がやった仕事で何かあったらどうしよう」とか「何かあっても誰も助けてくれない」といった不安から、新たな業務を引き受けることを敬遠しがちになっていったのでした。
祖父とのお別れ
ちょうどこの頃、祖父が病気で亡くなってしまったのです。
小さい頃から色々なところに連れて行ってくれたし、高校の時も雨が降っていたら声を掛ける前に送迎のスタンバイをしてくれていた祖父。
スーパーマーケットでレジのバイトをしていた時も22:00になったらお願いしていなくても絶対迎えに来てくれていました。
祖父との思い出はとてもたくさんあったので、凄く寂しかったのを今でも覚えています。
仕事が辛くなってきた時期と重なってしまい、私は精神的に追い込まれていくのでした。
10.社会人編「借金」
初めてのクレジットカード
私は母から「絶対にクレジットカードを作ってはいけない!」と言われていたのでカードを持たずに生きてきました。
しかし、あまりにもお金が無くて困っていた私はクレジットカードについて調べてみたのです。
調べてみるとクレジットカードで買い物をした場合、金額が大きい支払いは分割にできるしポイントも貯まってお得だということを知ったのです。
いくら母に止められているとはいえ、何も買い物ができないのではお話にならないため、少し利子が付くぐらいなら問題無いだろうと思い、軽い気持ちでクレジットカードを作ったのでした。
私はもともとお金に対してルーズな性格だったこともあり、クレジットカードに頼りきった生活が始まります。
「お金が無くてもカードで払えばなんとかなる」
「次の給料で一括返済できる分だけ借りるなら大丈夫」
「たとえ一括返済できなくても、決められた額を払っていれば借金取りに追われるようなことは無い」
という甘い考えでカードを使っていたのです。
初めのうちは「翌月の給料で支払える分の前借り」という考え方で使っていたのですが、普通の返済方法だと返済額が大きいため、余裕のある生活はできないんですよね。
結局は月々数万円を返していくわけですから。そこで登場したのがリボ払いでした。
リボ払いというのはたとえ10万円使ったとしても、月々の返済額は5,000円で良いという返済方法です。
もちろん残りの95,000円に15%の利子が付くわけですから、ローンがどんどん膨らんでいくのは少し考えればわかること。
しかも残りのローンが少なくなると、月々の返済額が5,000円から3,000円になり、ローンの全額返済を遅らせるという怖いシステムだったんです。
15%の利子が付くためなるべく長い時間、多い金額でローンが留まるようにしておきたいということですね。
でも、当時の私にはそんな未来を想像する余裕なんてありませんでした。
リボ払いの闇
リボ払いというシステムにより、月々の支払いが減って精神的な負担が軽くなった私は、お金が無くても外食に出掛けたり買い物を楽しんだりしていました。
カードも2種類作って
「現金が必要になったらキャッシング」
「カードで払えるものはカード払い」
という生活を続けていたのです。
実際はクレジットカードで多額の借金をしている状態になっているのですが、実際に支払うのは5,000円だったので軽く考えていました。
そんな生活がしばらく続き、私は厳しい現実を思い知らされます。
徐々に増え続けていた借金は、いつの間にか限度額に達していたのです。
2つのカードを合わせて100万円もの借金をしている状態が出来上がっていました。給料が13万円の私にとってその金額は大き過ぎます。
唯一の救いは「それぞれのカードの上限が50万円だったため、借金が100万円でストップされた」ということ。
ここから私は「借金返済のためだけに働く」という大きなストレスを抱えて生活をしていくことになるのです。
感覚の狂い
カードを使えなくなった人間が最初にぶち当たる壁は「買いたい物が買えない」という欲求です。これは「食べたい物が食べれない」というのも同じですね。
クレジットカードを使う前までは普通に我慢できていたことでも、一度甘い汁をすすってしまうと中毒になり、それが制限された時に大きなストレスへと変わるのです。
そして、
「できることが制限される」
「100万円を返し切らないといけない」
「親に黙って借金を作ったため相談できない」
「借金は恥ずかしいことだから友達に相談できない」
これらの要素が常に私を苦しめることになったのでした。
しかしリボ払い中毒というのはこれだけでは治まりません。
「今月は頑張って多めに返済しよう」と思って一気に5万円を返済したとしても、それは同時に「また5万円を借りられる状態」ということでもあります。
こういう時に結婚式などの招待があると、そこでまた借金をしてしまい、気付くと再度限度額まで達してしまうのです。
人間の「欲」や「見栄」というのは、そう簡単に抑えることなんてできません。そのためこのループから抜け出すことは非常に難しいのでした。
11.社会人編「借金返済までの道のり」
夫との出会い
今の夫がいなければ私は借金を返済することはできませんでした。
夫とは知り合ってから付き合うまでに数年間もの期間があったんですよ。初めのうちは遊ぶなんてこともほとんどありませんでした。
でも知り合ってから数年後、ちょうど私が事務仕事で苦しんでいるタイミングで、ちょくちょく遊ぶようになっていったのです。
お互いにカラオケが好きだったのでよく歌いに行きましたね。カラオケや食事に行く時、私が財布を出そうとしても彼が「別に高くないから俺が出すよ」と言って払ってくれたのです。
お金が無い私は変に見栄を張ることも無く、ありがたくご馳走になっていたのでした。あとカラオケの割引券やポイントカードのポイントは、私がササッといただいてましたね 笑
お互い一緒にいて気が楽だったのもあり、私達は付き合うことになったのでした。
彼は借金返済能力に長けていた
キッカケは覚えていませんが、ある日彼がかつて借金を抱えていたという話をし始めたのです。
その内容は「職を失った時に借金400万円を抱えたけど、それを1年でほぼ返済した」という話でした。
私にとっては興味津々の話ですよ。
彼の場合は一つ二つではなく、多くの金融会社からお金を借りていたそうです。借りていたというか、実際のところは母親が彼の名前を使って作った借金を背負わされたということでした。
名前を貸した時の理由は、かなり巧妙な手口でしたよ。息子以外にその方法を使っていたら、確実に訴えられて刑務所行きだったでしょうね。
彼は借金返済について必死に調べました。
自己破産という方法もあったけど、400万円で自己破産というのは、その後のことを考えると「コスパが悪い」と判断してやらなかったのだそうです。
多重債務には「借金の一本化」がベストだと言っていました。
母親の年金を担保にして100万円を手に入れ、高金利の金融会社を一括返済していくうちに利息分がどんどん減っていったそうです。
そして仕事に就いて給料をもらうことで、限界まで返済に充てたとのことでした。
借金返済は「初期段階でどれだけ数字を消せるかが勝負と言っていましたね。
そんな彼の話を聞いて「この人になら相談できる」と思い、私は借金について打ち明けることを決意したのです。
借金に対してのスピード感
私は意を決して彼に借金のことを打ち明けました。
すると彼は一切驚くことなく「大変だったねぇ。もう少し詳しく聞かせてよ」と言ってくれたのです。
そして、色々と話していく中で彼はひとつの答えを導き出したのです。
それは
「お母さんに謝れば全部解決でしょ」
という当たり前のことでした。
母は私が結婚する時のためにお金を少し蓄えてくれていたので、それを使うということでした。
祖母の年金を担保にするという方法もあるのですが、それだと家族全員に知られてしまうため、可能ならば蓄えているお金を使わせてもらうのがベストだという考えです。
彼いわく、結局のところ借金というのは「怒られたくない」とか「悲しませたくない」とか「恥ずかしい」といった感情が原因で周りに相談できず、何年経っても返済できない人が多いのだそうです。
「お母さん達を悲しませたくないと思ってしまった」
ということを誠心誠意を込めて母に伝えることが一番の道だと言われたのでした。
母への告白
私は母と二人きりで話をしました。
母は怒ることも悲しむことも無く「それじゃ仕方ないね。大変だったね」とだけ言って納得してくれたのでした。
そして、このことは父にも伝えないと言ってくれたのです。
私は母の優しさに思わず大号泣してしまいました。
こうして、ひとりでずっと悩んでいた借金問題は解消されたのでした。
ただ、借金は母に一本化されただけで、引き続き返していくことには変わりありません。
それに給料は少ないままなので、変わらず極貧生活でしたけどね。
12.社会人編「彼の趣味」
借金返済について的確な指示をくれた彼ですが、実はかなりのパチンコ好きだったのです。
時間がある時は常にパチンコ屋へ行っていたそうなので、パチンコ依存症と言ってもいいでしょう。しかも負け越しているとのことでした。
付き合って間もなくしてパチンコが好きだと打ち明けられたので、それまでは知らなかったんですよ。
「お金の管理はできそうなのになぜパチンコ?」と思ったのですが、借金返済に関しての自信があったため、お金が無くなることを気にしていない性格だったのです。
ただ、パチンコで負けた時は毎回気分が良くないですし、勝ち続けていれば良いですけど実際のところ50万円使って30万円回収するぐらいの負けっぷりでしたから、当然お金は貯まりません。
「勝った時の快楽を得たい」とか「ただ単純に楽しい」という考えだけでパチンコをやりに行っている彼を見て「自分を助けてくれた彼をもっと明るい未来へ導くことができたらなぁ~」なんて漠然と思っていたのでした。
13.社会人編「ビジネス勉強編」
方向性を決める
ある日、彼が私に衝撃の事実を打ち明けたのです。
その内容は「上司の嫌がらせが我慢できない」という内容でした。
彼は借金の件を機に、お母さんとは仲が悪くなっていたようですが、お母さんが脳梗塞で倒れたことで和解していたのです。
お母さんは半身不随の状態にまでなってしまい、彼の収入がなければ生活ができない状態でした。
もちろん会社側もそのことは知っています。
そして「辞めることができない」ということを知った途端に上司の嫌がらせが始まったのでした。
あまりにもひどすぎる内容なので、ここではサッとお伝えしてしまいますが、ゴキブリを靴の中に入れられることもあったそうです。
彼を救う方法は「会社以外の方法で稼ぐしかない」と私は考えました。
そしてこの時の私も年金事務所での精神的苦痛に耐えられない状態まで達していたので「なんとかして人生を変えたい!」と考えていたのです。
このタイミングでビジネスの勉強を始めたのでした。
「彼を助けるにはお金!私が助かるのもお金!稼ぐためにはビジネス!」という単純な考え方でしたけど、この考えが私達の人生を大きく変えていったのです。
無料で学び始める
お金が無かった私は、手当たり次第無料で見ることのできる情報で学び始めました。
ただ、無料で調べるということは、やるべきことを自分の判断でやらなければいけないから、間違っていても気付けないということでもあるんですね。
このあと私はそれで大きく時間をロスすることになるのです。
わからないなりに色々調べていくうちに、耳障りの良い言葉が多い「自己啓発系」を見ることが増えました。
自己啓発って色々と気付かされることが多いから「なんか学べている!」という感じがするんですよね。
結果からいうと、ここで自己啓発系を見ていたのは「正解でもあり間違いでもあった」のです。
どういうことかというと、これにより考え方が鍛えられて仕事に対する取り組み方がガラッと変わったので、そういった面では「正解」でした。
考え方を鍛える前は「つまらない毎日だなぁ〜」と思いながら働いていたのですが、考え方を鍛えてからは色々な人の良いところにも目が行くようになったのです。
私自身、自分でも気付くほど仕事でもプライベートでも対応力が向上しましたしね。
でも、自己啓発では一銭も稼げるようにならなかったんですよ。
なので、意識改革では「正解」であり、ビジネスとしては「間違い」だったというわけです。
アフィリエイトを知る
やはりビジネスをやるからには稼ぐ必要があります。不用品販売などで一時的に稼ぐことはできますが、それでは単発なので毎月収入を得ることができません。
ある程度の収入を得たいと考えた結果「アフィリエイト」にたどり着いたのです。
アフィリエイトとは企業の商品紹介をして、私のサイト経由でお客様が購入してくれた時に「紹介料をもらえる」というビジネスになります。簡単に言うと「仲介業者」みたいな感じですね。
私は無料で調べられる範囲で手に入れた情報を元に、アフィリエイトを実践するための準備を始めたのでした。
もともとネットに詳しいわけではなかった私ですが、結構な時間を掛けてなんとかアフィリエイト用のサイトを作り上げました。
ようやくアフィリエイトをやるための下準備が整ったというわけですね。
そして、そこからは毎日とりあえず記事を書き続けて、本業以外の時間はほとんど作業していましたね。
憧れの人
You Tubeやブログから多くの情報を集めてアフィリエイトを実践するも、なかなか大きく稼げるようにはなりませんでした。
そんな頃に「憧れの人と話せる機会」があることを知ったのです。
この憧れの人とは私がお手本にしていた人であり「結婚して子供もいる状態から副業でビジネスを始めて成功を収めた」という経歴の持ち主でした。
その人の発信では、「ネットビジネス」「メルマガ」「コンテツビジネス」「仕組み化」について何度か目にしたことがありました。
しかし、「コレは詐欺じゃない?仕組み作るだけって怪しすぎる・・・」と信じられずめちゃくちゃ敬遠しちゃって。
結局、サイトを作って記事を量産してアフィリエイトで稼ぐという、大変な作業を伴う方を選択してたんですよね。
もうその考えがまさに「THE労働者!」だったな~と今ならわかりますね。笑
そんな憧れの相手と話ができるチャンスが目の前に到来した!私は話を聞かせてもらいたかったので、すぐに連絡をしたのでした。
現実を知る
ビジネス系ではしっかりとした内容で連絡をしても、返信をもらえないことが多々あるという世界なのですが、この方はすぐに丁寧な返信をしてくれたのです。
何通かメッセージのやりとりをした後に、スカイプ通話でお話を聞かせていただけるということになったのでした。スカイプとはLINEのようなものだと思ってください。
「ではかけますね〜」というメッセージの後に、スカイプの着信音がなりました。かなり緊張しましたけど、出るしかありません。震える指でクリックし、通話を開始したのでした。
パソコン越しに聞こえてくる声はYouTubeで聞いている声そのもので、まるで芸能人と話しているかのような感覚でしたね。色々な質問を受けた私は、一生懸命それに答えていったのです。
そしてその方からいただいた意見は
「よく無料でそこまでやることができましたね。でも、このままでは収入を得るのは難しいでしょうね」
という優しさと厳しさを兼ねそろえたものでした。結構頑張っていた私はショックを受けましたね。
その後、とても丁寧にその言葉の真意を教えてくださったのですが、そこでようやく考え方のレベルがあまりにも違うということに気付かされたのです。
結局のところ、私はビジネスの勉強を始めて数ヶ月が過ぎていたのですが、学ぶべきところがズレていたため物凄く遠回りしていたということだったのです。
本来学ぶべきことの100分の1程度しか調べられていなかった、という感じでしょうか。この時に「私のような素人では、お手本が無ければ絶対成功できない」ということを理解しました。
そして、この方から初めての有料教材を買わせていただいたのです。
有料教材、そして教わることの凄さ
教材を購入する時は「騙されるかもしれないけど、この人になら騙されてもしょうがない!」という気持ちで購入したのですが、その決断ができた私を褒めてあげたいですよ。
有料教材を買い、どんどん勉強していくうちに疑っていた時間を惜しむくらいコレは本物だと納得できましたね。
有料な情報に触れたことでビジネスがどれほど奥深いものかを知れましたし、「有料情報」と「無料情報」の違いも判別できるようになったのです。
有料情報と無料情報の違いをわかりやすく言うなら「問題と答えが載っているかどうか」ですね。
インターネットなどでお金を掛けずに調べた場合「まず何が問題なのかわからない」ということになりますから、当然その答えもわかりません。
それに比べて有料情報は問題と答え(解決策)が載っているため、迷うことが無いんですよ。
これが「遠回りしないための投資」になるわけで、やるとやらないとでは大きく差が出てきます。
何年やっても方向性が間違えていたらゴールにたどり着くことはできませんからね。
そして、学んでいくうちに「私と彼に合っているのは仕組み化×コンテンツ」だと気付いたのです。
その理由は「彼が色々なことを小さく成功させてきた人」だからです。
日本一とか世界一といったレベルでなくても、素人からすれば凄い人って結構いるじゃないですか。彼は趣味などにのめり込むタイプだったので、その下地をすでにいくつか作り上げていたんですよ。
でもアフィリエイトでビジネスの本質を学べるのは間違いなかったので、いきなりコンテンツビジネスのみをやるのではなく、私の実績作りのためにアフィリエイトも一緒に手伝ってもらおうと考えました。
私には彼のように価値を与えられるほどの経験が無かったため、アフィリエイトで収入を得て実績を上げるしかないと思っていたというわけです。
この時の自分を振り返ってみると「実績の種類って、お金だけじゃないんだよなぁ」と思ってしまいます。
お金を稼ぐことだけではなく、誰かを幸せにすることだって実績だし、お金にならなくてもみんなが驚くようなことをすれば実績になるんですから、本当に勉強不足だったと思いますよ。
ちなみに、アフィリエイトである程度の報酬が発生しましたが、人に誇れるような実績にはなりませんでしたね。
14.彼氏改革
彼氏にビジネスの凄さを伝える
ある日の夜、彼と一緒に夕飯を食べている時に私はビジネスの話を切り出しました。
ビジネスについてしっかり学んだ私は、自分の成長っぷりを彼に見てもらいたくて、専門用語を使いつつ今後の未来を語ったのです。
その結果、な〜んにも伝わりませんでした。
むしろ「大丈夫?騙されてるんじゃないの?」と心配されてしまったのです。
私は自分の成長を見てもらいたいがために、ビジネスの基本である「相手に伝わる言葉を使う」ということを忘れていたのでした。
彼の反応を見て「これではいけない!」と思った私は、カッコつけることなく専門用語を使わずにひとつずつゆっくり説明していったのです。
そして、彼自身の価値をいくつも提示していったのでした。
彼氏の変化
最初は疑っていた彼も熱意のこもった私の説明を聞いているうちに、だんだんビジネスの凄さ、そして自分の可能性に気付き出したのです。
家賃無し、投資金少量、自分の知識が収入になるというやり甲斐、そして会社での理不尽な現状からの解放を認識したのでした。
そして彼は「どうせこのままの人生を送るぐらいなら、ビジネスをやってみようかな」
という言葉と共に、ビジネスへ挑戦することを決意したのです。
15.ビジネスの厳しさ
ビジネスの厳しさ
ようやく本格始動した私達ですが、当然ビジネスは甘い世界ではありません。
やり方によっては超難関大学を卒業した人達以上の収入を得られるわけですから、そんな簡単に稼げるようなものではないのです。
ある程度の下準備は私の方でやってはいたものの、彼自身がやらなければならないことはたくさんあります。
スタートから収益化までの全体像を見て、何日やってもスタート地点からあまり進めない状況を目の当たりにした彼は、そこでようやくビジネスの厳しさを実感したのでした。
二人の役割
私達は二人の役割分担を決めました。
専門的な知識を必要とする「彼がやらなければならないこと」は彼自身にやってもらい、サイトの構築や編集などの「調べればできること」は私がやることにしたのです。
ビジネスをやる本来の目的は「ビジネスで稼いで、辛い現状から抜け出す」ということなので、二人ともが個性を活かして一生懸命やれる方が良いですからね。
私自身のビジネスは時間が掛かると考えていたので、本格的に彼のビジネスをやっていくことにしたのでした。
仕組みを作ってからも悪戦苦闘
二人で役割分担を決めたことにより、やるべきことをかなりスムーズに進められるようになった私達は、ようやく商品販売までの仕組みを作り上げたのです。
仕組みを作るまでに結構な期間が掛かりましたが、私達からしたら「もうこんなに経っちゃったのか」という感じでしたよ。
会社に勤めながらビジネスを始めるというのは時間に追われるため、あっという間に時が経ってしまうのです。
「これで上手くいく!」と思ったのですが、そう簡単にいかないのがビジネス。仕組みは完成しているのに全然売れなかったのです。
結局買ってくれるのは「人間」であり、必要なのは「信頼」なんですよ。
そこに気付いた私達は全力で「信頼」を集めにいったのでした。
ようやく得た収益
「あーでもないこーでもない」と試行錯誤していったことで、彼は一人でようやく月収50万円の収益をあげることができたのです。
この時彼は凄く喜びながら【稼ぐのは面白い】と連呼していましたね 笑
それと同時にお金を稼ぐことの大変さを実感したのです。
そして彼は、会社を辞めることができたのはもちろん、あれだけハマっていたパチンコに対する熱さえも消え去っていたのでした。
16.現在の生活
実は、後半の内容はだいぶギュッと凝縮した話になってます。
全てを細かく正確にここに書くと、あと一時間は読み続けてもらう必要がありました。笑
さて、そんなお互いに助け合える関係性となった私達は結婚して家族になり、今では子供もいます。
毎日騒がしくて参っちゃいますけど、とても楽しいですよ。
夫も私もここまで来るのにだいぶ遠回りしましたが、今ではお互いが自分で稼げる力を手に入れたことで、会社勤めをすることなく時間やお金に縛られない自由な生活を送っています。
生徒さんを持つようになって実感したのですが、私よりも才能がある人はたくさんいるし、本当は価値があるのに自分の才能に気付いていない人も多いんです。
そして、そういう素晴らしいものを持っている人達に限って、自分が納得のいく人生を送っていなかったりするんですよね。
私はそのような「正当な評価を受けていない人達」に自分の価値に気付いてもらいながら、これからも自分のビジネスをより良いものにし続けていきますよ。
時間はあっという間に過ぎてしまうから、より良い人生を歩んでいきましょうね。
とても長い自己紹介をご覧いただき、誠にありがとうございました。
〜道重るみ〜
一緒に勉強したい方へ
■ビジネスの勉強をしたい方
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